コラム「耐震構造設計偽造問題の背景と本質」
(2005.12)
耐震構造設計偽造問題の背景と本質
今般の耐震設計計算書偽造事件の背景には様々な構造的問題が見え隠れしている。
事件の全貌は未だ明らかではないが、一言で言えば「金儲けのみしか頭にないデベロッパーとその仲間が、建築基準法及び関係法令の不備と建築士法制度の構造的矛盾につけこみ、社会的立場の弱い構造建築士を抱き込んで社会と消費者を欺いた重大な社会的犯罪」ということができるように思える。
事件の概要とその背景
マンション業界の本質は当然のことながら経済至上主義である。元々商品ではなかったはずの住宅やマンションを商品として扱い市場に提供することが業務のすべてであることからすれば当然のことでありそれ自体悪ではないし、批判される筋合いの問題でもない。しかし建築の商品化がどんどん進む一方で、肝心の建築関係法や建築士制度の問題が旧態然のまま放置されたり、小手先だけの部分的対応に終始しているところにこそ、まさに問題の構造的本質があるともいえる。
阪神大震災で明らかになったことのひとつに、建設現場の手抜き工事が常態化している建設業界の現実があった。そしてマンション業界も当然その例に漏れない。阪神大震災以後、建築検査の形骸化を正すべく、建築関係法を改正して中間検査及び完了検査の徹底が図られることになり、悪徳建設業者の取り締まりが強化されたが、時を同じくして構造設計に関して、それまでの仕様設計基準から性能設計基準へと大きく構造設計基準の根本的な考え方を見直し、構造設計建築士の専門的職能を認め、その技術的判断の裁量を格段に大きくさせたことが、皮肉にも結果として今回の犯罪の遠因になったとみることもできる。
悪意あるマンション業者にとっては、社会的あるいは経済的に弱い立場にありながら強大な技術的裁量権をもってしまった構造建築士が格好のカモに見えたであろうことは言うまでもない。
これまでのように現場で非合法の手抜き工事をすることなく、構造建築士を抱き込み手先にすれば、安全性には疑問符がつくものの少なくとも法には違反しない「合法的な」安普請のマンションを大手を振って建設する手法を手に入れることができるようになったのである。
更に不幸だったのは、それ自体社会的善であり正しい選択だと思われる官から民への流れの中で、民間の確認申請検査機関制度がほぼ同時期に施行されたことである。
この制度の持つ構造的制度欠陥あるいは、見切り発車的制度の運用が今回の犯罪を結果として助長させ、数々の検査見落としを生むことになったようにも思われる。
ただし、あちこちの県や市の確認審査機関までが構造計算書の偽造を見抜けなかったことは、民間検査機関制度の問題というより確認審査制度そのものの矛盾の表れであるともいえる。以下、それぞれの問題点を洗い出すこととしたい。
マンション業界の体質と消費者の安全神話
すべてのマンション業者がそうだというわけではないが、各種の広告媒体等でいかに美辞麗句をならべてみたところで、その本質は「経済合理主義の貫徹」がすべてに優先しがちである。法を犯すのは論外だとしても、建物の安全性が法を犯さない最小限に抑えられていたとしても誰も文句は言えない。逆に言えば激しい市場競争にさらされている業界にあって、間取りや広さや仕上げで究極の合理性を追求したとしてももう限界に近く、ほとんど他社との差違を見いだすことは難しい。そして最後に残った聖域が建物のすなわち構造部分だったというわけである。
かの業界の宣伝文句を思い出してほしい。曰く、「このマンションは地震に強く、国が決めた耐震基準を満たしています。」
しかし問題は国が決めた耐震基準を満たすかどうかは、設計を担当した構造建築士の「専門的工学的判断」に相当程度左右されるものであるということを、一般消費者や大多数の国民が認識していないことである。すなわちほとんどの人々は、国が決めた建物の安全性に関する絶対的な基準があり、このマンションはその基準を満足しているのだと思っている現実がある。そしてそのお墨付きを与えるものが「確認申請済」の公文書なのだと。
しかし現実の建築関係諸法では、確認申請審査機関にそこまでの責務を負わしてはいない。
一方消費者の側にも、「マンション構造安全神話」ともいうべき悲しい思い込みがある。
例えば、1000万円のベンツと100万円の国産車とを比較した場合、車のユーザーは当然のこととして両者の車の安全性に関して同等程度のものだとは思っていないだろう。
すなわち事実として両者の車には安全性に関して差違があって当然であり、それが価格にも反映されているものと当然に考えられているのである。しかるにマンションの購買者はどうだろう。彼らはえてして、安いマンションも高額のマンションも構造の耐震安全性に関しては同等程度にあると信じて疑っていないとみるべきである。曰く「国の耐震基準を満たしている。」しかし現実はそうではない。安価なマンションはそれだけの安全性しかないのは自明の理である。この消費者の「構造安全神話」が金儲け至上主義のデベロッパーの格好の口実になり、構造躯体がマンションの工事費減額競争のただ中にひきずりだされたと見ることが出来る。そしてその行き着く先が、法を犯してまでも金儲けに走った今回の事件であろう。


建築行政と一級建築士制度
従来我が国では、建築基準法の考え方は「仕様設計」が主流であった。しかるに現在先進諸外国では「性能設計」の考え方が主流になっている。何が違うか。ひとことで言えば、先進諸国は建築設計者の専門的職能を認めた上で制度を運用しているのであり、一方我が国では従来、建築設計者の専門的職能と能力を限定的にしか認めず、従って事細かに仕様規定を定めて制度を構築運用してきた。確認申請審査制度などその最たる物だろう。
よく3大プロフェッションなどといわれる。すなわち医者、弁護士、そして「建築家」。医者の世界で、ある医者の治験の善し悪しを第三者機関が検査や審査するのは滑稽なことだ。弁護士の世界でも同じ。すなわちそれらはそれぞれの専門的職能として独自の専門的判断がなされ、その専門的行為を社会は当然のこととして認めているのである。同じように先進欧米諸国では、「建築家」の職能も当然のこととして社会的に認知されている。しかるに我が国はどうか。我が国では従来、限定的にしかその専門的職能を認められない国家資格としての「一級建築士」が存在するだけだ。
数年前の建築基準法の大改正の時、一大方向転換がなされた。建築設計業界にとっては画期的な法改正である。すなわち仕様設計から性能設計へ。先進欧米諸国にならってとりあえず部分的ではあるが、国の建築行政が建築士の専門的職能を認める方向へ一歩踏み出したのである。
建築設計の分野は大きく計画意匠設計と構造設計と設備設計に専門分野が大別されるが、先の改正ではとりあえず構造設計の分野で性能設計を採用することとしたのである。しかしここにも不幸の種がある。私見だが、意匠計画設計の分野こそ性能設計の思想を体現すべきであって、もしくは一律に建築設計と建築行政そして一級建築士制度をも同時に見直して「建築士」を専門的職能として法的に認め、建築行政全体を性能設計の体系に見直すべきであったと思う。
専門家として専門性を十分に発揮出来る立場を法的に確保されたにもかかわらず、現実の社会における構造設計者の立場はきわめて低い。一般の人々には理解しがたいかもしれないけれど、現実の社会の仕組み、特に市場経済原理に組み込まれたマンション業界などでの評価はそんなものであり、その事情は意匠計画設計者でもそう違わない。いわば専門性をもった「パシリ」である。
ところで構造設計者が建物が壊れるかもしれない程の構造設計をすること自体、設計者自身のメリットはほとんどない。法を犯してまで、人々の生活と安全を奪う重大な結果が明らかである悪質な犯罪行為である構造計算書の偽造をしてしまう程の強い動機は見あたらないように思える。今回の犯罪者が例外だと言ってしまえばそれまでだが、その意味で今回の犯罪的行為が件の構造設計者の自発的行為だとはとても思えない。今回の偽造設計者が不幸にも一線を越えてしまったことは、建築士としてどれだけ非難されても言い訳は出来ない。しかし、日々「経済設計」の圧力を受けながらぎりぎりのところで専門的技術者としての倫理観と戦っている構造設計者が全国に数多いることもまた事実である。


構造設計の現状と建築確認審査業務
各種報道情報だけの判断ではあるが、一連の事件の情報を見聞きするにつれ、今回おもしろいことに気が付いた。それは今回事件のほとんど中枢にいるであろうと思われるデベロッパーの経営者達が、確認審査制度の現実や構造設計の実際をほとんど理解していないように思われることである。
よく考えてほしい。マンション住民はもちろん最大の被害者ではあるが、しかしながら今回の結末で一番経済的に負担を追うのは結局デベロッパーそのものである。「住宅品確法
」の存在はいくらなんでも知っているはずだとすると、今回のようにまったく明らかな欠陥住宅を販売すれば、自分にすべて賠償責任がかかってくることは知っていたはずである。それは明らかに自殺行為である。にもかかわらずそんな欠陥住宅を販売し続けたのはなぜか。答えはひとつ。彼らは自分達が販売しているマンションの安全性に、根拠なく全く疑義を挟まなかったからである。建築確認審査への根拠なき盲目的信頼というべきか。しかしこの問題は確認申請審査業務の本質を国民に理解させる努力を怠っていた建築行政にもまた責任の一端があるはずである。
現在の構造設計の考え方は性能設計が主流である。
一方工学的にいえば、建築物は複雑系であり、理論的に解析するためにはモデル化によるシミュレーションの手法を用い、そして最終的に安全率を「工学的判断」で勘案する。
昨今建築構造学が格段に進歩したとはいえ、現時点において複雑系の建築物の地震時の挙動について、厳密に数学的に解答が得られている訳ではないのである。だからこその「モデル化と安全率と工学的判断」なのである。
一連のマンションやビジネスホテルの構造設計の確認申請審査はどのようにして行われているのか。法に定めたやり方は「国認定の構造ソフト」を使っていれば計算書類を簡略化できるなど、構造計算の中身までの厳密な審査を求めてはいない。そして入力条件の考え方は大部分構造設計者の専門的判断に委ねられているところが大きい。構造設計者性善説である。この事情を知らない国民は官民を問わず発覚している偽造計算書の見逃し問題における関係者の言説を言い逃れと受け取っているようだが、当事者にも言いつのる少しばかりの理由があることは理解出来る。ただし、そうだとしても偽造を見過ごした責任がすべて看過されるというものでもない。いずれにしてもそこには確認審査制度の構造的欠陥の一端が見て取れる。
一方、構造計算におけるモデル化と入力条件の算定にも微妙なしかし重大な危うい問題をはらんでいる。
現実の建築物と似て非なるモデルを正しいと言いつのる「悪い構造設計者」がでてくれば、ほとんど合法的に建築確認審査を通り、合法的に安全性に問題があるかもしれない建物が量産される可能性があるということである。これは単純な構造計算書偽造問題以上の重大な社会的問題を含んでいるとも思う。しかし現状の建築関係法の元ではあながち荒唐無稽な作り話ともいえないのである。


今後の方策
犯罪者はもちろん悪いが、極論すればどこの世界にも悪人はいるのである。その悪人を如何にして制御するかそれが危機管理であり法の精神である。
一連の事件の経過をながめると現在の我が国の建築関係法の矛盾、建築行政の矛盾、建築確認審査制度の矛盾、そして職能としての建築士制度の矛盾が透けて見える。
一方もちろん金儲け至上主義のマンション業者は善良な消費者の敵には違いないが、世の中にはそんな御仁がどの業界にもゴマンといるものである。今回の事件を見聞きするにつけ、彼らにつけ込まれるだけの構造的欠陥が建築設計を取り巻く社会システムにあったといわざるを得ない。
今回被害に遭われたマンション住民にとっては、安全で安心だと確信していたにもかかわらず、結果として安全性に疑問があるとんでもないマンションをだまされて買わされてしまったという事実だけが残ってしまった。建築設計者、マンション業者、建設業者、民間建築確認審査機関のみならず、市、県、国までもが意図的か否かにかかわらず、結果としてこの複雑な「サギ事件」に加担していた構図が浮かび上がってくる。
今やほとんど社会的パニック前夜の様相を呈し始めた。国民のほとんどは何を信じていいのか判らない状態だと推測される。とりあえず、緊急避難的な対処療法ではあっても何らかの対策が早急に必要である。建築確認審査の強化と運用の見直し、構造設計基準の運用の見直し、そして何より被害に遭われたマンション住民への対応等々。
何よりも、建築生産や住宅供給システムの安全で安心できる社会システムを早期に再構築することが大事であり、それが消費者、国民のみならず結局のところ関連する業界にとっても健全な発展の基礎となるはずである。
いろいろな方策が今後検討されるものと思われるが、ただしその方向性は決して間違わないでいただきたいと切実に思う。
官から民への方向性は正しい。
民間審査機関を認可したことは間違っていない。
構造設計を仕様設計から性能設計へ踏み出したことは正しい。
ただしそれらの制度を支えるバックボーンは建築士職能制度の確立である。まさに、我が国の建築関係法の現状は「仏作って魂入れず」の状態なのである。
一連の事件の主役の一人は間違いなく構造建築士を含めた建築設計者である。
事業主に支配され続ける構造建築士や建築設計士。この構造を改めない限り、無理難題を押しつける事業主の圧力から逃れる術をもたない弱い立場の設計者は、技術者としての良心や倫理観と現実の狭間で悩みつづける。
日常の設計業務を行っていて、つくづく思うのは建築士あるいは設計者の社会的立場の弱さである。現行のように事業主から設計報酬をもらう制度の元では、現実問題として専門家としての独立した正しい判断を下すのは極めて難しい状況が散見される。建築の生産システムが市場経済に組み込まれつつある現状ではなおさらである。そこでは個人的な設計者あるいは専門技術者としての倫理観のみが最後の砦である。現在の我国の法制度下では、建築士はほとんど武器をもたず丸裸のまま社会の荒野をさ迷うに等しいといっても過言ではない。専門家としての職業的倫理観を高くもってことにあたれ、ただし生活の保障はしない。これが現実の姿である。
今こそ時代に見合った建築士職能制度の確立が必要であり、その好機である。
建築設計監理を生業とする一人としては、建築士職能制度の確立と見直しの一方策として「設計監理料の公的報酬システムの確立」とその具体案の検討を是非とも切望するものである。例えば医者の世界では「診療報酬制度」がある。診療報酬を患者から直接もらうのではなく、国あるいは保険制度を活用して支払いを受けとる制度である。同じようなシステムを構築できれば、建築士の経済的自立と身分保障が確立されると考える。
建築士の経済的自立と責任ある職能人としての職業的倫理観の確立は表裏一体であり、自己研鑽は当然必要だとしても、少なくとも建築士は国民の生命と財産を守る一翼を担っているのであり、その身分は社会制度として保証されてしかるべきと思われる。

